最高裁判所第三小法廷 昭和37年(オ)711号 判決 1963年6月04日
上告人 国
訴訟代理人 真鍋薫 外一名
被上告人 小野孫八
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人真鍋薫、同古館清吾の上告理由について。
労働者が第三者の行為により災害をこうむつた場合にその第三者に対して取得する損害賠償請求権は、通常の不法行為上の債権であり、その災害につき労働者災害補償保険法による保険が付せられているからといつて、その性質を異にするものとは解されない。したがつて、他に別段の規定がないかぎり、被災労働者らは、私法自治の原則上、第三者が自己に対し負担する損害賠償債務の全部又は一部を免除する自由を有するものといわなければならない。
ところで、労働者災害補償保険法二〇条は、その一項において、政府は、補償の原因である事故が、第三者の行為によつて生じた場合に保険給付をしたときは、その給付の価額の限度で、補償を受けた者が第三者に対して有する損害賠償請求権を取得する旨を規定するとともに、その二項において、補償を受けるべきものが、当該第三者より同一の事由につき損害賠償を受けたときは、政府は、その価額の限度で災害補償の義務を免れる旨を規定しており、右二項は、単に、被災労働者らが第三者から現実に損害賠償を受けた場合には、政府もまた、その限度において保険給付をする義務を免れる旨を明らかにしているに止まるが、労災保険制度は、もともと、被災労働者らのこうむつた損害を補償することを目的とするものであることにかんがみれば、被災労働者ら自らが、第三者の自己に対する損害賠償債務の全部又は一部を免除し、その限度において損害賠償請求権を喪失した場合においても、政府は、その限度において保険給付をする義務を免れるべきことは、規定をまつまでもない当然のことであつて、右二項の規定は、右の場合における政府の免責を否定する趣旨のものとは解されないのである。そして、補償を受けるべき者が、第三者から損害賠償を受け又は第三者の負担する損害賠償債務を免除したときは、その限度において損害賠償請求権は消滅するのであるから、政府がその後保険給付をしても、その請求権がなお存することを前提とする前示法条二項による法定代位権の発生する余地のないことは明らかである。補償を受けるべき者が、現実に損害賠償を受けないかぎり、政府は保険給付をする義務を免れず、したがつて、政府が保険給付をした場合に発生すべき右法定代位権を保全するため、補償を受けるべき者が第三者に対する損害賠償請求権をあらかじめ放棄しても、これをもつて政府に対抗しえないと論ずるがごときは、損害賠償請求権ならびに労災保険の性質を誤解したことに基づく本末顛倒の論というほかはない。
もつとも、以上のごとく解するときは、被災労働者らの不用意な、又は必ずしも真意にそわない示談等により、これらの者が保険給付を受ける権利を失い、労働者の災害に対し迅速かつ公正な保護を与えようとする労災保険制度の目的にもとるがごとき結果を招来するおそれもないとはいえないが、そのような結果は、労災保険制度に対する労働者らの認識を深めること、保険給付が労災保険法の所期するように迅速に行われること、ならびに、損害賠償債務の免除が被災労働者らの真意に出たものかどうかに関する認定を厳格に行うこと(錯誤又は詐欺等も問題とされるべきである)によつて、よくこれを防止しうるものと考えられる。
本件につき、原審が確定したところによれば、被災労働者庭田の代理人佐々木と加害運転者蟹沢の使用者たる被上告人の間においては、本件保険給付がなされるより以前の昭和三二年一〇月二一日に、庭田は自動車損害保険金のほか、慰籍料及び治療費等として二万円の支払を受けることで満足し、その余の賠償請求権一切を放棄する旨の示談が成立し、代理人佐々木からその旨の報告を受けた庭田本人もこれを了承したというのであつて、右によれば、右賠償額はいささか過少の感を免れないとしても、その余の請求権の放棄はその真意に出たものと認めることができるので、他に右示談を無効とすべき事由が現われない本件においては、右示談により庭田の被上告人に対する損害賠償請求権はすでに消滅し、政府は、その限度において、保険給付をする責を免れたものといわなければならない。
されば、上告人が、その後に本件保険給付をしても、被上告人に対し求償権を取得する由がないとして上告人の本訴請求を排斥した原判決は正当であり、所論は、右と異なる独自の見解の下に原判決に法律の解釈、適用を誤つた違法があるとするものであり、採用することをえない。
よつて、民訴四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
(裁判官 横田正俊 河村又介 垂水克己 石坂修一 五鬼上堅磐)
上告代理人真鍋薫、同古館清吾の上告理由
原判決には労働者災害補償保険法第二十条の解釈適用を誤つた違法があり破棄せらるべきものと信ずる。
一、原判決は、政府が被災労働者に対し保険給付をする前に、和解等により被災労働者が損害賠償を請求し得べき第三者に対し損害賠償額を免除し、もしくは賠償請求権を放棄する旨の契約をすることは私法上の権利の処分として有効であり、そしてこの場合政府が取得すべき損害賠償請求権は消滅するから、その結果として当該第三者に対し求償権を取得しないものといわねばならない、と判示される。
しかし、労働者災害補償保険法(以下労災保険法と略称する。)にもとづく保険給付がなされる前に、被災労働者が不法行為者との合意等によつて損害賠償請求権を放棄する等しても、これをもつて同請求権につき法律上正当な利益を有する政府に対抗しえないと解すべきである。以下その理由を述べる。
企業が機械化され大規模かつ複雑高度化されるにつれて、業務に従事中の労働者が災害を蒙る危険性が増大し、一旦事故が発生するにおよんではこれが責任の帰属主体さえも明確にすることが困難な事態も生じ、その結果は主として使用者からの賃金によつてのみ生計を営み、かつ労働力の維持、再生産にあてている被災労働者の生活等がたちまちにして危殆に瀕し、これを放置するにおよんでは、労働者の労働力の維持再生産等はそれだけ困難になることは明かであり、かかる事態の発生は社会的ないしは経済機構上極めて重大事である。そこで労働者が業務上の事由により災害を蒙つたときには労働基準法第七十五条以下の規定の定めるところにより、使用者は労働者が実際にうけた損害額の如何にかかわらず、労働力の再生産等のために必要であるとあらかじめ定められた補償額を迅速に、かつ現実に支給しなければならないという災害補償の制度が確立されたのである。しかし、かかる制度が確立されても補償すべき使用者が無資力であつたり、あるいは使用者の不誠意から補償が遅延する様では被災労働者の保護に充分でなく、また使用者が補償の結果、資金難となり企業活動を阻害されるという事態が生じても困るので、労災保険法において政府が使用者に代り保険給付の形式で、労働者に対し迅速かつ現実に災害の補償をなすことを予定したのである。
したがつて、労働者が業務上の事由によつて蒙つた損害が補償をうけたといいうるためには、それによつて発生した損害が現実に金銭によつて填補されなければならないということは明かであり、このことは右災害が第三者の行為に基因する場合であつても同様であり、労災保険法第二十条もかかる見地にもとづいて定められたものである。すなわち労働者が蒙つた災害の発生が第三者の行為に基因する場合には、労働者が当該第三者より現実に金銭によつて損害の賠償をうけたことを条件として、政府はその価額の限度で被災労働者に対する災害補償の義務を免れる(同法第二十条第二項)が、被災労働者が第三者より金銭をもつて現実にその蒙つた損害の填補をうけない限り、政府は被災労働者に対する補償の義務を免れないのであり、また一旦右の義務の履行として被災労働者に対して現実に補償をした以上、政府は補償額の限度において被災労働者が第三者に対して有する損害賠償請求権を取得し、第三者に対し求償権を行使できるのである(同条第一項)。このことは、被災労働者が不法行為者との合意によつて損害賠償請求権を放棄した場合等においても同様であると解すべきである。けだしこの損害賠償請求権は政府が補償義務を履行することにより法律上当然に政府に帰属すべく定められたものであるから、かかる請求権を自由に放棄しうると解すると政府の正当な法律上の期待権を侵害し、これに損害を生ぜしめる結果を招くことになることは明らかである。
したがつて政府は被災労働者の不法行為者に対する損害賠償請求権につき正当な法律上の利益を有するものというべくかかる場合に被災労働者が右賠償請求権を放棄しても、これをもつて政府に対抗しえないものと解すべきであるからである。そしてもしそうでないとすれば、不法行為者と被災労働者が通謀し、あるいは不法行為者が被災労働者の無知に乗じて、政府の取得すべき被災労働者の不法行為者に対する損害賠償請求権を消滅せしめることができるのにかかわらず、政府は被災労働者に対する補償をしなければならないこととなり、保険者である国に不測の損害を蒙らせる結果を来し、労災補償制度の経済的基礎を不安定ならしめて制度の存立自体を危殆ならしめかねないのである。
二、なお原判決は、被災労働者が不法行為者に対する損害賠償請求権を放棄した後に政府が保険給付をした場合には、被災労働者に対し右給付相当額につき不当利得返還請求権を有する旨判示される。
しかし、前項において述べたとおり被災労働者が不法行為者より金銭をもつて現実にその蒙つた損害の填補をうけない限り、政府は被災労働者に対する補償の義務を免れないのであるから、被災労働者が不法行為者に対する損害賠償請求権を放棄しても、金銭をもつて現実にその蒙つた損害の填補をうけたということはできず、したがつて、保険給付は右補償義務の履行であつて原判決判示のごとき不当利得返還請求権の成立する余地は存しないものと考えられる。
これを要するに政府が労災保険法にもとづく保険給付をなす前に被災労働者が不法行為者との合意等により損害賠償請求権を放棄する等しても、これをもつて同請求権につき法律上正当な利益を有する政府に対抗しえないものというべく、これと相反する見解のもとに上告人の被上告人に対する同法にもとづく求償権の行使を斥けた原判決には同法第二十条の解釈適用を誤つた違法があるものというべきである。